死霊を呼ぶ恐山
風祭 遊(西京建一)
鴉が濡れた岩の上からこちらを見ている。
小雨と硫黄で恐山は煙っている。
硫黄の猛烈な臭い。
大小の岩の塊。風に回る色とりどりの風車。
あちこちの石地蔵には、赤や黄の帽子がかぶせられている。
幼くして死んだ我が子や、水子の供養をしているのだろうか。
恐山は死者の霊が集う山だ。
「二つや三つや四つや五つや十にも足らぬ幼児が賽の河原に集まりて、父恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は――― 一つ積んでは母のため、二つ積んでは父のため・・・・・」(地蔵和讃)
この風景は死者の国だ。
熱湯と硫黄が噴出する無間地獄、重罪地獄、血の池地獄は、まさに、浄土教の地獄の光景だ。
ふと幻想に陥る。
鴉や山犬が死肉を喰らう。
赤鬼や青鬼が、人間の股を裂き、血をすすっている。
泣き叫ぶ男女の頭が鉄棒で叩き割られる。
流れ出る脳漿。
赤い血。白い骨。
その中を私はヒタヒタと歩く。
もうここはこの世ではない。
死者の群れの中だ。
しかし、何故か懐かしい。
この感情は何、なのか。
そうだ、自分ももう死んでいるのだ。
三次元の時間差があるだけで、それが少しズレて、私も大勢の死者とここにいるんだ。
私の霊も死者の霊の中に溶けあっている。
ひとつになっているんだ。
生と死は一枚のコインだ。
私が動けば、私についてくる大勢の死霊も動く。
硫黄の中を、風車と石地蔵の中を、岩塊を。

地蔵堂の中には、死者たちの生前のものがいっぱい納められている。
下着、子供服、浴衣、ネクタイ、帽子、おもちゃ、 カバン、ありとあらゆるものが、お堂を満たしている。
これは死者たちの形見の万華鏡だ。
それらのものは、死者たちの生前の思い出。
楽しかった日々や、苦しかった体験を思い思いに語っている。
そのおしゃべりで、地蔵堂は溢れている。
私が恐山に登ったのは、7月の終り。
既に夏の大祭(7月22日〜24日)は終わって おり、死霊を呼び寄せてくれるイタコの姿はもうない。
盲目のイタコに会いたかった。
会って、母の父の霊をこの世に呼び戻し、あの世の暮らしはどうなのか、いま何を思っているのか聞きたかった。
夏祭りの時は、それはそれは賑やかであるそうな。
東北一帯や近隣から大勢の死者を呼び寄せたい人々とイタコが、そこかしこで輪になり、死者の言葉 をイタコが取り次ぎ、その言葉にさめざめと泣き、夜は、盆踊りに我を忘れて踊り、日暮れて、恐山 の5ヵ所の温泉で、イタコと一緒になって混浴す るのだそうだ。
このように地獄を巡り、死者と再会し、死者を供養し、号泣し、その後、踊りと混浴の極楽に遊ぶ。
それが恐山の大いなるカタルシスの仕かけだ。
死と再生の祭儀だ。

祭りのあとの恐山は、それだけにより一層もの悲 しい。
私は走る。
ハアハアハアハア。
岩の中を、砂浜を賽の河原を走って宇曽利潮に着 く。
何故か熱いものがこみあげてくる。
私は、宇曽利潮の空に向かって思わず叫ぶ。
「わが母よ。わが父よ。今どうしていますか。
今どこにいるんですか。
あなたの息子がきました。
お母さ―――ん。お父さ―――ん。」
私は大声で、何度も何度も叫ぶ。
涙が止まらない。
私は子供のようにオンオン泣く。
私は宇曽利潮に入る。
硫黄のしみた水を飲む。
これが、母と父の体液か。
宇曽利潮の白い石をかむ。
これが、母と父の骨なのか。

雨が止み、宇曽利潮にかかっていた靄が晴れ、青空が見えてきた。
私は、私の体の中に、母と父を入れ、
恐山を後にした。